続・竹林の愚人 飛鳥と古代国家

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飛鳥と古代国家


飛鳥と古代国家 (日本古代の歴史)飛鳥と古代国家 (日本古代の歴史)
(2013/08/09)
篠川 賢

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6世紀前半の朝鮮『三国史記』(1145年成立)によれば、新羅では、500年に智証王が即位し、異斯夫を軍主に任じて領土を広げ、514年には智証王が死去して、その子の法興王が即位したとされる。
新羅はこの法興王(在位514~540)の時代に、国内体制を整え領土の拡張を進めた。
522年には、伽耶国の王が新羅に婚姻関係を求め、法興王は伊飡(新羅の官位17階の第2位)の比助夫の妹を送ってそれに応じたという。
この伽耶国王は、大伽耶連盟の盟主であった加羅(大伽耶)国の王とみられる。
その後新羅は、もっぱら南部伽耶地域への領土拡張を進めていくことになる。

一方、百済は、501年に武寧王が即位し、北は高句麗と戦いその南下を防ぎ、東は北部伽耶地域、南は南部伽耶地域への侵攻を積極的に進めていた。
その際百済は、倭と結ぶ方針をとった。
『日本書紀』に記す百済への「任那四県の割譲」や、己汶・帯沙の百済への「下賜」は、百済が伽耶地域に領土を拡張していったことを、『日本書紀』編者の立場から述べたものである。
『日本書紀』では、当時、「任那」(伽耶諸国)は日本(倭)の支配下にあったとされ、新羅や百済も日本に従属していた国と位置づけられている。
倭が伽耶地域(とくに南部伽耶地域)と密接な関係を有していたことは事実だが、事実とみることはできない。
継体紀6年(512)12月条に「任那四県の割譲」は、百済が使者を遣わして、「任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県の割譲」を求めてきたとの記事がある。
百済の要求を認めた方がよいとする「哆唎国守」穂積臣押山の意見に、大伴金村が同意し、割譲が決定したとされる。
近年、全羅南道の地域から前方後円墳があいついで発見されており、この地域に倭人が派遣され、この地で亡くなった人物もいたことを示している。

続いて、翌年の継体妃7年6月条には、百済が使いを遣わして、五経博士(儒教の博士)の段楊爾を貢上し、伴跛国に奪われた己汶の地の返還を求めてきたとあり、同年11月条には、己汶・帯沙を百済に下賜する勅が伝えられたと記されている。
百済が五経博士を倭に送ってきたのは、百済の伽耶地域への領土拡張を、倭が支持し承認したことに対する見返りと考えられる。
百済では、523年に武寧王が死去し、その子の聖明王(聖王)が即位したが、聖明王(在位523~554)も、倭と結ぶ方針を継承し、領土の拡張を目指していった。

その頃、倭国内においては、磐井の乱がおきた。
継体紀によれば、磐井の乱は新羅に破られた南加羅と〔口彔〕己呑を復興するために「任那」に派遣された近江毛野の軍を、磐井がさえぎつたことによって始まったとされる。
新羅が磐井に賄賂を送って、近江毛野の軍を妨害するように勧めたということも、当時の朝鮮半島情勢からすれば、事実を反映した記述であろう。

磐井は筑紫・火国・豊国に勢力を伸ばしていたという。
磐井の墓と推定される岩戸山古墳の規模や、そこに数多く立つ石人・石馬などの石造物の分布からすれば、これも事実を反映したものだろう。
岩戸山古墳は、6世紀前半築造の全長約140m前方後円墳で、八女古墳群中の最大規模の古墳である。
『日本書紀』によれば、磐井の乱を鎮圧したのは物部麁鹿火で、筑紫の御井郡の戦いで、麁鹿火自らが磐井を斬ったとされ、『古事記』では、物部麁鹿火と大伴金村の2人が乱の鎮圧に派遣されたとある。
継体紀によれば、磐井の乱後、近江毛野臣の軍は朝鮮半島に渡ったが、新羅に敗れ、毛野による外交交渉も失敗に終わったとされる。
結局、南加羅(金官国)は、532年、新羅に降伏することになった。
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テーマ:読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/10/02(水) 07:00:46|
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家康が知っていた倭国年号

安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て30年ほど滞在し、日本語教科書を作るため、茶道を含む、日本文化を幅広く聞き書き収集して著した、「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。特に銀山開発には家康はスペインからの技術者導入のために尽力しています。スペイン国王からは難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。
興味深いことに、この本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人が聞き書きした、日本の歴史が記載され、この頃あった、古代からの日本の歴史についての考を知ることができる タイムカプセル でしょうか。これが戦国時代直後までの古代史の認識で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され其の後に慶雲以後の大和年号が続きます。明治以後にはこの歴史認識は失われてしまったようです。日本語研究書と見做され、日本大文典の倭国年号のこの内容は、実物を手に取った人にしか分からない状態になっています、ウィキなどにも倭国年号の存在は記載されていませんので、ぜひ一度手にとってご覧いただければ幸いです。
ついでに
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 720年「日本紀」 を普通これは「日本書紀」と読み替える約束ですが、読み替えられない、別物という論証がされています。
宜しくお願いします。
  1. URL |
  2. 2013/12/23(月) 10:32:34 |
  3. いしやま #j1BwbPXw
  4. [ 編集 ]

「記紀」はいかにして成立したか

読んでみましたが・・・。
「日本大文典」は取り寄せ中です。
  1. URL |
  2. 2014/01/02(木) 21:21:47 |
  3. bittercup #-
  4. [ 編集 ]

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