続・竹林の愚人 神仏習合の聖地

神仏習合の聖地


神仏習合の聖地神仏習合の聖地
(2007/01)
村山 修一

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東大寺大仏造立に関与し、鎮守手向山八幡宮として南都に進出した八幡神は、道鏡即位問題を惹起し、天下の耳目を驚かした。
平安初期、藤原良房は妹の順子所生の道康親王が文徳天皇になると、娘明子を入内させ、その子惟仁親王の立太子を強引に進めた。
八幡神の神威で世論を圧伏させるため、良房は惟仁立太子の祈請に僧行教を宇佐八幡宮へ参向させた。
『南都大安寺塔中院縁起』によると、行教が宇佐宮に参り、大般若経を法施すると、「汝と共に上洛して百王之聖流を護らん」との託宣が下り、大同2年(807)8月17日に朝廷に報告すると、勅命をもって大安寺石清水坊に宝殿を造った。
そこで日夜法施にはげんでいると、今度は都に近く移坐したいとの告げがあり、男山に鎮座することになったと述べている。

当時真言宗では空海のあと、弟子は実慧の広沢流と真雅の小野流に分かれて競合し、行教は小野流に属した。
真雅が東大寺と宇佐八幡宮の深い因縁から、皇位継承に関する八幡神の援助を良房に勧告したのも自然であったろう。
かくして良房の指示を直接仰ぐことになった行教は、弥勤寺の社僧を通じて宇佐八幡宮神職団にも働きかけ、奈良朝大仏殿へ鎮守としての八幡神動座の例にならい、今回は僧侶主導の形式により八幡神神霊の京都への勧請を計画し、良房はじめ要路の諒解をとりつけた。
石清水八幡宮の『宮寺縁事抄』によると、貞観元年7月15日、行教が宇佐宮から都へ帰る途中に託宣が下り、金色の鳩が船の柱に止まって光を放ち、8月23日、山城山崎離宮の辺で1泊すると、25日夜御神体を「石清水男山の峰」が月星のごとく光りかがやいた。
よって男山山頂に参拝して、示現の場所に草庵を結び、この奇瑞を公家に上奏した。
朝廷はそれに応じて勅使を立て、6棟の宝殿を建立して八幡三所へ御神体を安置した。

宇佐八幡宮の『八幡宇佐宮御託宣集』には直接行数と八幡神との応対については全く触れておらず、八幡神の男山遷座は行教の一人芝居だったと見られる。
9月19日には、天皇が男山より紫雲立ち騰り王城を覆う夢想を感じ、皇后や公家も同様の夢をみた。
よって重ねて行教に宇佐宮で大般若経読経供養すべき勅命が出、行数は貞観3年に参向し、正月3日から37日間、僧百口を率いて大般若経・金剛般若経・理趣般若経・光明真言を読み巻数僧名簿を言上、大宮司大神田仲麻呂に五位を授け、度者33人国ごとに諸大明神社各僧1人を遺し、天皇のため祈願せしめ、石清永の料として宇佐八幡神に15人の度者を祈願僧とした。
同時に男山東面の堂を南面の堂に改め、石清水護国寺の薬師堂とした。
一切経書写に行教の弟子安宗を写経所別当として、護国寺別当を兼ねさせた。
貞観7年8月13日には宇佐宮同様神主が置かれ、従八位上紀御豊が補せられた。
このとき真雅が良房とはかって創立した貞観寺には座主職が置かれ、石清水護国寺の宮寺体制が実質的に発足した。
寛平8年(896)行教の弟益信が東寺長者のまま石清水八幡宮の初代検校を兼ね、中世は検校が別当の上に立って一山を管掌するようになった。
また安宗は元慶7年(883)に別当坊として男山麓に極楽寺を創建し、以後その門流の人が寺務を管掌した。
保元3年(1158)の頃には37所に上る荘園を所有し、寺主が八幡宮護国寺検校・別当の兼職であったため、事実上護国寺の宮寺領に包括された。
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  1. 2013/10/04(金) 07:00:29|
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