続・竹林の愚人 東京骨灰紀行

東京骨灰紀行

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(2009/09)
小沢 信男

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江戸東京博物館JR両国駅のプラットホームから北をみれば、国技館の緑の大屋根が眼のまえです。
右隣りに、4本脚の白い建物。
巨大な机に白い箱を山ほど積みあげたような。
どうしてこんなかっこうを、江戸東京博物館はしているのだろう。

江戸切絵図の「本所絵図」には、隅田川べりにならぶ大名屋敷の裏側が、大きな三角地の「御竹蔵」となっています。
維新後は、陸軍省の倉庫となり、やがて軍装工場の被服廠がつくられ、やがて赤羽へ移ると、跡地の24,000余坪の三角地は大正11年3月に東京市と逓信省に払い下げられ、一面の更地になっていた。
そこへがらりと大地震。
被服廠跡は、全焼失区域のあいにくまんなかあたりになる。
38,000余人が折り重なって死んだなかで、400人ほど生きのこった。

大正12年の惨劇の三角地の、北側3分の1ほどを横綱町公園にして、ここに震災記念堂が建立されたのが昭和5年(1930)9月。
神社のような仏閣のような教会のような、瓦屋根のお寺風の講堂で、公園が境内にあたります。
本堂と背中合わせに、三重の塔をいただく納骨堂をつくり、約58,000体の遺骨を納めた。
その震災記念堂が、戦後の昭和26年(1951)9月に、東京都慰霊堂と改称された。
震災58,000体、戦災105,000体、22年をへて東京の巷に散った無量の骨たちをまとめて弔う。

震災時の東京市長永田秀次郎の「焼けて直ぐ芽ぐむちからや椋欄の露」の顕彰碑、その左隣りの植込みのなかに、横長の石碑が立つ。
横書きで「追悼」と、その下に「関東大震災朝鮮人犠牲者」とある。
震災は、流言蛮語を生んだ。
朝鮮人が諸方に火を放ち、井戸に毒を投げこんでるぞ、火薬庫が襲撃されるぞ、大挙して攻めよせてきたぞ。
流言は災害激甚の横浜に発して、たちまち東京へとどいた。
警視庁はただちに要人警護に走り、町々村々に自警団が生まれて、朝鮮人狩りがはじまった。
軍は近県の軍隊にも出動を命じ、戒厳令が9月2日午後6時に東京市と周辺5郡に施行され、翌3日に東京府と神奈川県に、4日には千葉県と埼玉県へと拡大した。
軍隊や自警団に追われて、警察へ逃げこむ朝鮮人も、警察にぶちこまれていて助かった社会主義者もいた。
極度の混乱中の事件は、騎兵連隊から亀戸署から自警団から、なしくずしに戒厳令下の正当行為とされた。
この間に虐殺された朝鮮人たちのなかには、中国人も日本人もまざったようで、疑われたら運の尽きらしかった。
戒厳令は11月なかばに解除になるが、この戒厳令的状況が、その後は海外へ輸出されてゆく。
満州へ、中国へ。柳条湖の爆破。盧溝橋の一発。
内地では、自警団の活動が、愛郷的行動として肯定された。
そしてそれが警防団へ、たびたびの防空演習から、防諜へ、非国民監視の日常活動へと、つながったのでありますなぁ。

鈴木俊一都知事の置き土産に、平成5年(1993)3月、江戸東京博物館がそびえ立った。
4本脚の大机は、被服廠跡へむけてピタリと据えてある。
その机上に載せた梯形は、白亜の壁面が横線と縦線で四角く何百と区切られている。
あの三重塔の納骨堂に収まる白磁の骨壷たちを積みあげたような。
してみれば、この全体が、すなわち香華台なんだ!
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  1. 2013/10/06(日) 07:00:50|
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