続・竹林の愚人 シナ海域 蜃気楼王国の興亡

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シナ海域 蜃気楼王国の興亡

シナ海域 蜃気楼王国の興亡シナ海域 蜃気楼王国の興亡
(2013/09/11)
上田 信

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13世紀初めにモンゴル高原でチンギス=ハンが建てたモンゴル帝国は、東に女真族の金朝を攻め、西にイスラーム王朝のホラズム・シャー王国を破り、帝国の範囲を高原の外に広げた。
その過程で内陸の交易を担っていたウイグル人が帝国に参入し、経済や情報などの面で帝国を支えるようになった。
オアシスを結んで交易していた商人たちは、モンゴル帝国の領域内で安全に交易を行うことが可能となる。
チンギス=ハンの後継者は帝国をいっそう拡大し、第5代皇帝フビライは中国に元朝を開き、中国全土を支配下に収めた。
元朝が南宋を攻略する過程で、華南を拠点に海の交易を営んでいたムスリム商人と接点を持つようになる。
海を航行する商人たちは、モンゴル帝国の統治下で盛んに交易を展開した。
フビライは海への支配を強固にしようと、海外遠征を行うが、日本遠征に失敗し、ジャワ遠征も失敗する。
しかし、中国側と日本・ジャワ側の双方に海の世界に関する膨大な情報を残したに違いない。

元朝に代わって中国を統一した明朝は、朝貢してきた各地の政権の長に、王侯君長などの爵位を与えて身分の序列を作った。
明朝の皇帝から国王として認められた君主は定期的に中国に来航し、貢納すると、皇帝からは多大な下賜品が与えられた。
この朝貢メカニズムのもと、国外との取引が制約されていたため、交易は密貿易商人が担うようになる。
明朝が弾圧すると、海の商人は武装して沿海地域で略奪を行う事態となった。
これが、後期倭冠と呼ばれる状況である。
倭寇の頭目の1人であった王直などの指導者は、日本と中国、さらに東南アジアを結ぶ交易を展開した。
さらに王直などの華人商人は、この交易活動のなかに、ポルトガル人を引き入れた。
王直らは明朝に対して、自らを海の秩序を護持するポストにつけるとともに、海禁の緩和を求めた。
海禁緩和は、王直の死後ほどなくして実現され、朝貢を伴わない交易(互市)が認められるようになった。
王直の死後、江南ネットワークに属する海洋商人は後退すると、マカオに拠点を置くポルトガル冒険商人が担うようになる。
ポルトガル冒険商人は、イエズス会宣教師と密接な関係を持った。
商人が宣教師に寄付し、宣教師はアジア各地に信者のネットワークを創る。
信者ネットワークは、アジアにおけるポルトガル商人の庇護者、パトロンともなり、彼らの交易活動を支える。
こうして16世紀後半には、蜃気楼王国はカソリック信仰圏という色彩を帯びてくる。
この時期に、商人・武将・キリシタンという要素を兼ね備えた人物として、小西立佐と行長の父子が、日本から現れる。

明朝は日本に警戒心を抱いていたために、互市の対象から日本は除外されていた。
そのため、日本と中国とのあいだの交易は、東南アジアや台湾などを経由して行われた。
この交易を17世紀に掌握した勢力が、福建出身の鄭芝龍、そしてその息子の鄭成功、および西欧の新興勢力であったオランダ東インド会社であった。
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