続・竹林の愚人 ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く


ジャズと自由は手をとって(地獄に)行くジャズと自由は手をとって(地獄に)行く
(2013/05/21)
大谷 能生

Amazonを見る
「戦前日本のジャズ文化」へむかって

横浜・山下公園の東端から本牧方面にむかい、山下橋を渡った河のたもとに以前「BUND HOTEL」というホテルがあった。
このホテルをイメージして作られた歌謡曲が「別れりブルース」(1937)・「ブルーライト・ヨコハマ」(1967)・「よこはま・たそがれ」(1971)で、いずれも曲想と歌詞の情感がぴたりと合致している名曲である。
この3曲の中で唯一戦前に作られたのが「別れのブルース」で、服部良一の自伝によると、当初そのタイトルは「本牧ブルース」となる予定であったと言う。

服部とその相棒・詩人の藤浦胱は、歌謡曲として広く大衆に愛される「日本のブルース」を作ろうと意気投合した。
その頃の本牧は、港を見下す小高い丘にチャブ屋やバーが密集した一種の私娼窟で、異国情緒にひかれた粋客が訪れる、遊所の穴場として有名になっていた。
服部はそうした本牧のバーで偶然、淡谷のり子が唄ったダミアの「暗い日曜日」を蓄音機で聴き、本牧を舞台にした「ブルース」を彼女に唄わぜようと決める。
服部と藤浦は、蓄音器からはジャズが鳴り、色町特有の喧噪はあったが、植民地風な頽廃がたちこめ、妙に悲しい一区劃である本牧風俗街の印象から、当時の港街の典型的な情緒を抽出・再構成し、多くの人の心を掴むことに成功した。

服部良一が生まれ育った大阪から東京に仕事場を移したのが昭和8年(1933)。
ラジオ、レコード、トーキーの出現で激変した音楽産業の要求に、戦前のミュージシャンの多くはついて行けず、失職、転職を余儀なくされた。
服部良一は「うなぎ屋の客引き」演奏からスタートして、大阪フィルで勉強しながら市内で一番儲かるダンス・ホールで稼ぎ、大衆音楽の作曲家になった。
価値のあるもの=人々が求めているものを貪欲に求める彼のセンスは一貫しており、厳格なエマニエル・メッテル氏に師事しながら、ダンス・ミュージック・クリエイターの第一人者である井田一郎などとも交流があった。
彼は音楽によって生活してゆこうと考え、その当時最も広く必要とされるだろう音楽のクリエイターになろうと試みた。
その結果、彼が選んだ職業がジャズ/ポピュラー・ソングの作曲家であった。
服部良はアメリカから来たジャズ/ポピュラー・ミュージックに、都市に暮らす庶民は、こうした音楽を自身の生活のために絶対に必要とする、ということを強く感じていたに違いない。
でなければ大阪フィルに残って、オーボエでモーツァルトの交響曲を吹いて一生を終わっていたはずだ。

「別れりブルース」は外地から火がついた。
外地とは植民地のことだ。
1937年は日本が中国への侵略を全面的に開始した年でもある。
「BUND HOTEL」の「BUND」とは「海岸線」のことであり、メリケン波止場から出て行った船は横浜の対岸である上海の「BUND」へと向かうのだろう。
この時期の日本は、このてようにして広がってゆく植民地と、そこに新しく生まれる「民」とを一つにまとめるためのイデオロギーを強く必要としていた。
服部良一は、アメリカのジャズ/ダンス・ミュージックのあり方から、その最良であるかもしれない形を読み取っていたのではないかと思う。
関連記事

テーマ:読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/10/18(金) 07:00:31|
  2. BOOK
  3. | コメント:0
<<丹波史を探る | ホーム | 東大阪の社寺>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

bittercup

Author:bittercup
近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

Translate

検索フォーム

Loading

月別アーカイブ

カテゴリ

Table of Contents (46)
BOOK (1275)
Shrines (1718)
Historic sites (739)
Retro (114)
SIGHT (382)
NEWS (185)
GOODS (86)
PC (40)
Lecture (18)
Greeting (14)
Blog (7)
TRAIL (9)

FC2カウンター

リンク

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。