続・竹林の愚人 古墳時代

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古墳時代


列島の考古学 古墳時代列島の考古学 古墳時代
(2011/08/11)
右島 和夫、千賀 久 他

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千賀 久 「最初の大王墓」

「大和」は一般的には奈良県全域、律令期の大和国をさすが、ヤマトの語源はヤマ+トである。
そのヤマ(山)は三輪山を意味していたと和田拳さんは指摘し、ヤマトの範囲は「初瀬川や寺川の流域で、三輪山を間近に仰ぎ見る一帯」で、「天香具山・三輪山・石上神宮・島の山古墳ぐらいを結んだ地域に初瀬谷を加えた範囲」とする。
この地域では、三輪山の神への祭祀が重要な位置を占めていたと考えられる。
さらに、最初の大型前方後円墳である箸墓古墳は、三輪山を背にする位置を選んで築かれた。
その墳丘長276mという大きさは、隣接する古墳とくらべて格段の差があり、古墳築造の背景に有力な王の存在が想定できる。
『日本書紀』に伝える、三輪山の神オオモノヌシに仕えた巫女ヤマトトトヒモモソヒメの墓「箸墓」が、実際にこの箸墓古墳のことをさす可能性は十分ある。

纏向遺跡は、三輪山の北西に広がる古墳時代初頭の集落遺跡である。
ここは箸墓古墳に始まるヤマトの大型古墳群に葬られた王たちによる、初期ヤマト王権の都と位置づける説が有力だ。
その中枢部と考えられる区域の調査で、中心となる3世紀前葉~中葉の大型建物は、東西12.4m、南北19.2mの規模で、径30cm前後の太い柱が使われていた。
さらに、計4棟が方位を合わせて東西に並び、計画的に配置された建物群であることがわかった。
この遺跡の出土土器に、河内をはじめ東海・瀬戸内・山陰・北陸・近江などの土器を多く含み、また、彩色や線刻で飾られたマツリの壷が目立った。
このほかに、導水施設をともなう水のマツリの場も見つかっていている。

箸墓古墳では、後円部の頂に、弥生時代後期の吉備地方でつくり始められた特殊器台・特殊壷と、それから発展した埴輪が立てられている。
墳丘裾に散乱する板石からは、竪穴式石室が想定でき、その構造は吉備地方などに系譜が求められる。
その石材は、河内の芝山から大和川を上って運ばれたものである。
また、先行するホケノ山古墳でも東海系の朱塗り壷が墳丘上に並べられ、その埋葬施設は朝鮮半島南部につながる石囲い木槨で、棺内に副葬された画文帯神獣鏡は中国後漠から魂代の優品である。
近畿以西の地域と東海の勢力による政治連合=連立政権をつくつたことの証を記念碑としてのこしたのが最初の大王墓の箸墓古墳だといえるだろう。

遺跡の東半部の巻野内尾崎花地区・家ツラ地区と、西半部の勝山地区で鍛冶関連の遺物がまとまって見つかった。
また、そこから北西に離れた勝山古墳の周辺部では鉄器も出土した。
このように鍛冶工房が古墳前期から操業していたと想定でき、北部九州を経由して渡来人の技術者がやってきたと考えられる。
また、当時の鉄素材は朝鮮半島南部地域との交易によるもので、それも北部九州の勢力が介したのだろう。
箸墓古墳に先行するか同じ時期の古墳として、ホケノ山古墳と纏向遺跡内の各古墳が注目される。
調査でそれぞれの古墳の構成要素が一様ではないことがわかってきた。
これらの古墳は、いずれも墳丘長100m前後の大きさで、纏向遺跡内の大溝の想定流路が箸墓古墳につながることからも、そこに葬られた人物を纏向に居を構えた王と考えられる。
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