続・竹林の愚人 教信寺

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教信寺

教信寺

教信寺(きょうしんじ) 加古川市野口町野口465
教信寺は、平安時代に活躍した教信上人の庵の跡に建てられた寺院です。
教信上人は天応元年(781)奈良に生まれ、興福寺で学んだ後、16歳の時に同寺を出て諸国を行脚し、40年余りの後、賀古の駅にたどり着き庵を結びました。
加古川での教信の活動は、ひたすらに念仏を唱えながら、街道を行く旅人の手助けをするというもので、東は明石から西は阿弥陀宿(現高砂市阿弥陀町)まで荷物を運んだと言います。
また、教信寺の南の広がる駅ケ池も教信が地元の人々と掘った物だと言われています。
貞観8年(866)、自らの死期を悟った教信は、妻と子に遺骸は庵の側に捨てて鳥獣に施してほしいと言い残して亡くなりました。
同じ時摂津国勝尾寺(現大阪府箕面市)の僧勝如の夢に教信が現れ、自らの死を告げました。
不思議に思った勝如が弟子を加古川へ走らせると、そこには頭部だけがきれいに残った教信の遺骸がありました。
これが、現在教信寺伝わる教信頭部像だと言われています。
その後、清和天皇(850~880)が教信の徳をしのんでこの地に伽藍を建てて観念寺とし、さらに崇徳天皇が大治元年(1126)に念仏山教信寺と改めたとされています。
天下6年(1578)秀吉の幹城攻めにともない野口城が攻略され、教信寺もすべて焼かれてしまいましたが、諸尊は僧らの手によって焼失を免れ、元和年間(1615~1623)に再興されました。
教信は一遍や親鸞にも先達として仰がれ、とくに一遍は諸国を巡るたびの途中、教信寺で1泊して念仏踊りを興行し、これが現在の播州音頭の起源であると言われています。

教信寺

本堂 本尊:阿弥陀如来像  脇壇:観世音菩薩像・地蔵菩薩像・寶頭盧尊者
天正の兵乱後、元和年間(1615~1623)に再興した本堂は、天保11年(1840)に再び焼失しています。
安政2年(1855)の、板書きの10分の1本堂図が残っていますが、完成はしていません。
現在の本堂は、もと書写山如意輪寺(女人堂)にあった寄棟造りの本瓦葺きの念仏堂で、応永5年(1398)の建立と伝えられています。
破損が激しかったため、明治11年(1878)に取り壊しを願い出たものを、明治13年(1880)に教信寺がもらい受け、壇徒が協力して移築しました。
その後、昭和57年(1982)に屋根瓦を葺き替えています。
平成7年(1995)の阪神淡路大震災では、撃滅的な損壊を受けましたが、多くの援助により復興し、その際、本堂後半部の石積みの基礎を取り去り、回り縁としています。
  平成15年5月  加古川市文化財保護協会

教信寺

開山堂  本尊:教信上人頭像  脇壇:二十五菩薩行道面
本尊は教信上人頭部像です。
天正の兵乱後、元和年間(1615~1623)に観音堂が再興しましたが、天保11年(1840)に焼失し、その後再建されましたが時期は不詳です。
老朽化や破損が激しかった所に、平成7年(1995)の震災で修復不能となり、基礎以外の部材は殆ど入れ替わりました。
復興の完了した平成13年(2001)から開山堂に変更しています。

教信寺

薬師堂  本尊:薬師三尊 脇壇:大日如来・天台大師・伝教大師

教信寺

山王権現堂

教信寺

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  1. 2013/10/30(水) 07:05:47|
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