続・竹林の愚人 称名寺

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称名寺

称名寺

称名寺(しょうみょうじ) 加古川市加古川町本町313
加古川城址
城主は、糟谷助右衛門(内膳とも云)で、別所長治の幕下であった。
天正5年に羽柴藤吉郎秀吉が当城へきた時、はじめて糟谷の館に入って休息し、当地方の城主のことを詳しく尋ねた。
その後書写山に移ったが、糟谷助右衛門は、それ以来、秀吉につき従って小姓頭となった。
後年各所に転戦し、賤ヶ獄一番槍に武名を挙げたという。
(播磨鑑)
加古川城五十間(約90m)四方
雁南庄加古川村
村より一丁(約110m)西の方とあり、この附近一帯が加古川城である。
   昭和62年3月  加古川市教育委員会

称名寺


称名寺

佛頂山 稱名山 理観大徳遺跡
台座に家型石棺の蓋が使用されている。 長さ131cm・幅73cm・厚さ27cm

称名寺


称名寺

不動堂

称名寺

本堂  本尊:阿弥陀如来

称名寺

毘沙門堂

称名寺

大師堂
称名寺

観音堂
称名寺

火伏八幡宮

称名寺

七騎供養塔
この碑は、撰文も書も頼山陽の筆によるもので、文政3年に建立されたものです。
七騎とは、南北朝時代、正平5年、塩治判官高貞が、事実に相違する告げ口によって京都を追われ、本国の出雲へ落ちて行く時、足利尊氏の軍勢に追われ、米田町の附近で追いつかれてしまいました。
その時、弟の六郎他郎党七人が主を討たせまいとしてこの場所にふみ止まり、足利の軍勢と激しく戦いましたが、遂に全員討死してしまいました。
この七騎の塚が船頭附近にありましたが、洪水等で流されてしまい、今はもう残っていません。
この碑は、山田佐右衛門が領主となり、この七騎追弔のため、加古川の小石に法華経を一石に一字づつ書いて埋め、供養塔として建てようとしましたが、それを果さず亡くなり、寺家町の川西彦九郎、志方町の桜井九郎左衛門が施主となって完成させたものです。
まお、古賀精里の文、頼山陽の父頼春水の書になる七騎塚の碑が、米田町船頭の大師堂の境内に建てられています。      昭和59年3月 加古川市文化財保存協会
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テーマ:兵庫県 - ジャンル:地域情報

  1. 2013/10/31(木) 07:15:09|
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  3. | コメント:1
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コメント

いよいよ十一月です

■bittercupさま。
旺盛なアップに敬意を表します。
今年の夏から秋へかけても
不順な天候と台風に悩まされましたが、
ようやく冬めいて参りました。
いよいよ十一月です。歳月は非情です。
よろしくお願いいたします。 では、また。
  1. URL |
  2. 2013/10/31(木) 14:19:08 |
  3. 木村草弥 #-
  4. [ 編集 ]

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