続・竹林の愚人 ジョセフ・ヒコ展

ジョセフ・ヒコ展

ジョセフ・ヒコ展

「新聞の父 ジョセフ・ヒコ展」  播磨町 町制施行50周年記念企画展
10月5日(土)~12月1日(日)  播磨町郷土資料館
新聞の父と称されるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵幼名は彦太郎)は、天保8(1837)年8月21日(9月20日)、播磨国加古郡古宮村(播磨町古宮)の農家に生まれました。
早くに父を亡くし、母は再婚して隣の本庄村浜田(播磨町本荘)に移り住んだので、船頭の家で育ちました。
嘉永3年(1850)、遠州灘で暴風雨に遭い、栄力丸で太平洋を漂流中にアメリカ商船に助けられてアメリカへ渡りました。
メリーランド州ボルチモアのミッションスクールに入学し、カトリックの洗礼を受けて名前をジョセフ・ヒコ(受洗台帳には「JOSEPH HICO DON」)と改めました。
1858年には、日本人として初めてアメリカの市民権を取得しました(帰化記録には、「HICO」がハイコと発音されることもあって「JOSEPH HECO」と改名)。
安政6年(1859)、アメリカ領事館通訳として9年ぶりに日本に帰ったヒコは、英語に堪能な日本人として日米外交交渉で活躍しました。
その後、領事館を辞めて商社を設立し、新開発行に向けて準備を始めました。
当時、横浜では外国人が迫害を受け、新聞の発行は身を危険にさらす行為でしたが、日本に外国の事情を伝えたいという思いは強く、元治元年(1864)、ヒコは日本で初めて新聞を発刊しました。
新聞は、ヒコが外国の新聞を翻訳し、岸田吟香と本間喜雄がひらがな交じりのやさしい日本文に直したものでした。
「新聞誌」の名で発刊された新聞は、半紙5・6枚に筆写したものをこよりで綴じ、月に3・4回発行して横浜市内に100部程度配っていました。
翌年「海外新聞」と改題し、木版刷りで26号まで発行しています。
「童子にも読なん(子どもにも読まれる)」とする編集方針をはじめ、第18号からは外国の新聞の翻訳だけでなくアメリカの歴史に関する連載や横浜関連の広告を掲載するなど、開拓精神に満ちた新聞づくりは現在の新聞の土台を築き、今でも高く評価されています。

ジョセフ・ヒコ展
ヒコが建てた両親の墓。 (蓮花寺 播磨町北本荘7-1-33)
側面に「明治三年十一月」、裏側に「December 1870」と刻まれ、地元では「横文字の墓」と呼ばれている。
※和暦と西暦で約1ケ月のズレがあるため、ヒコは1870(明治3年)、December(12月)と依頼。

ジョセフ・ヒコ展

兵庫県における新聞の発行
慶応3年12月に神戸港が開港し、「ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド(The Hiogo and Osaka Herarld)」が発行されました。
これは、兵庫県で最初に発行された英字新聞です。
邦字新聞は、慶応4年7月、藤田積中によって発行された「新聞論破 湊川濯餘」が最初です。
論破とは、新幕府派の「中外新聞」や「江湖新聞」などの報道記事を勤王の立場で論破するという意味です。
明治5年5月には、兵庫県令神田孝平の勧めで三木善八が「神戸港新聞」を創刊しています。
明治10年3月、淡路の安部吾平が自由民権的な立場の「淡路新聞」を発行し、同13年2月には、神戸で鹿島秀麿が日刊「神戸新報」を創刊しました。
また、明治17年4月には、改進覚系の「神戸又新日報」が創刊されています。
さらに、明治31年2月、川崎造船副社長の川崎芳太郎によって「神戸新聞」が創刊されました。
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  1. 2013/11/02(土) 07:10:30|
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