 市域南部を東西に貫通する第2阪神国道(国道43号線)の建設工事にともない、市下水道工事が行われた際、辰巳橋西北詰一帯の地域(旧辰巳町)から多量の遺物が出土しました。 調査は、昭和35年(1960)5月から6月にかけて行われ、地表下1mまでが表土層と確認でき、その下8m下層までに遺物を含む砂層が続いていました。 鎌倉時代に比定される層は、地表下5mの砂層で、生活の場であったらしく焼土も残っており、この層から多量の遺物が出土しています。 なお、地表下3mの地点で砂層内には方形の木製井戸枠が遺存していました。 この井戸は、竹のタガをはめた樽を使用しており、江戸時代も使用されたことがわかります。 遺物を整理してみると、海民の生活域を推測させる物も多く、船載の宋製白磁や青磁等かなり富裕の人々が生活したことが裏付けられます。 室町時代の文安2年(1445)の「東大寺兵庫北関入船納帳」には尼崎町のうち辰巳在住の船主・船夫・問屋筋の人数が数多く登場し、この地の繁栄ぶりが文献の上でもうかがえます。 尼崎市教育委員会 |