続・竹林の愚人 秀吉 尼崎の危難展

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秀吉 尼崎の危難展

平成26年度第1回企画展 「秀吉 尼崎の危難展」
平成26年5月4日~6月29日
尼崎市立文化財収蔵庫 企画展示室

羽柴秀吉は中国大返しを成功させ、仇敵明智秀吉を討ち破りますが、江戸時代後期に刊行された秀吉伝記にはその際の尼崎での出来事として次のような「尼崎危難」の物語が紹介されています。
光秀を討つため先を急ぐあまり単騎となって武庫川辺りまでやってきた秀吉は、明智勢の待ち伏せにあい、どうにかこれをやり過ごして尼崎の寺に逃げ込みました。
秀吉は浴室で僧に姿を変え、次に台所で食事の準備をしていた僧たちに紛れ込んで敵の目を逃れ、後から追いついた加藤清正ら家臣の奮戦で危機を脱した、というのです。
秀吉が逃げ込んだのは、当寺は大物にあり、江戸時代初頭に寺町に移転した栖賢寺(現在は京都市に移転)や廣徳寺とされ、尼崎は秀吉ゆかりの地として知られるようになります。
江戸時代の秀吉伝記には史実とは異なる逸話が数多く含まれており、「尼崎危難」もそのような秀吉伝説のひとつです。
中国大返しで尼崎に到達した秀吉が禅寺で主君信長を弔うため髻を切ったといわれていますので、この話が核となって創作されたものと考えられます。

絵本太閤記

絵本太閤記
寛政9年(1797)から刊行された豊臣秀吉伝記です。
本書によれば、備中高松から大急ぎで尼崎のあたりまで戻ってきた秀吉はただ一騎となったところを明智方の待ち伏せにあってしまいました。
このため最初に広徳寺、続いて隣にあった栖賢寺に逃げ込み、浴室で僧侶に姿を変え、台所で味噌すり坊主の中に紛れ込んで一難をしのいでいたといいます。
画面右手の味噌をすっている髭をはやした僧侶が秀吉です。

絵本豊臣勲功記 
絵本豊臣勲功記
幕末から明治期にかけて刊行された挿絵入りの豊臣秀吉一代記です。
『絵本太閤記』と筋書きは同じですが、秀吉が逃げ込み、僧侶となって敵の目を逃れた寺院は広徳寺となっています。
僧侶姿の秀吉と、隣の部屋で行方を捜す敵方の武士が描かれています。
栖賢寺、広徳寺とも臨済宗の寺院で、江戸時代初頭の尼崎城下町建設で寺町に移転する以前は大物にありました。
栖賢寺は明治期に京都に移転し現在はありません。

『摂津名所図会』
摂津国の名所を絵図と文章で紹介した地誌です。
寛政8年(1796)から翌年にかけて刊行されました。
川辺郡の名所が取り上げられている巻6下では、尼崎の広徳寺の項で秀吉が山崎の戦いで勝利を得たため、栖賢寺とともに諸将を集めて饗応したこと。また、栖賢寺の項では同様に諸侯をもてなしたことのほかに、秀吉が腰をかけて山崎の戦いの軍令を定めた古跡とされる「腰掛松」が紹介されています。

広徳寺(こうとくじ) 同所にあり。禅宗。随霊山と号す。京師大徳寺に属す。
開基言外和尚 大徳寺第三代なり。 本願は花岳宗梁禅定尼。
天正十年、羽柴秀吉公、中国より上洛し、山崎合戦に勝利を得たまひ、当寺および栖賢寺とともに、講将を聚め、祝賀の饗応ありし所なり。


栖賢寺(せいけんじ) 尼崎寺町にあり。禅院十刹のその一なり。
秀吉公、山崎合戦の時、勝利ありて、諸侯を饗したまふ所なり。
腰掛松 当寺にあり。秀吉公、この松に腰をかけられて、山崎合戦の軍令を定めたまふ古跡なり。
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