続・竹林の愚人 処女塚古墳

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処女塚古墳


処女塚公園((おとめづかこうえん) 神戸市東灘区御影塚町2-10

史蹟處求塚古墳(おとめづかこふん)  史跡名勝天然記念物保存法ニ依リ大正11年3月内務大臣指定。 
この処女塚古墳は、東灘区住吉宮町1丁目の東求女塚古墳および灘区都通3丁目の西求女塚古墳とともに、古く万葉の昔からひとびとに知られた有名な古墳であります。
大正11年に国の史跡指定を受けましたが、すでに墳丘の一部は道路で削られていました。
処女塚古墳の整備事業は、国の補助を受けて、昭和54年度から墳丘の整備をはじめ、昭和59年度に完成しました。
整備に伴う調査の結果、南向きの前方後方墳で、もとの大きさは、全長70m、後方部の幅39m、高さ17m、前方部の幅32m、高さ14mあり、後方部を三段築成、前方部を二段築成にしていたことがわかりました。
また、墳丘の斜面には石を葺いていましたが、円筒埴輪は立ててなく、数個体分の壺形土器が見つかりました。
濠の状態については明らかにすることができませんでした。
古墳を造った年代は、出土した壺形土器などによって、4世紀と考えることができます。
 昭和59年11月  神戸市教育委員会


前方部

後方部

小山田高家(こやまだたかいえ)の碑  
延元元年(1336)、湊川の戦いに敗れた新田義貞は、生田の森から東に敗走して東明(処女塚近辺)まで来た。
しかし、近づいた追手の矢で馬はたおれ、義貞は馬を降りて、処女塚に登って敵を防いだ。
その窮状をはるかに眺めた小山田太郎高家は、これまでの義貞の恩義を思い出して、塚に駆け寄って自分の馬に義貞をのせて、東に逃れさせた。
高家は塚上に留まって敵を防いだが、味方の配色は濃く、ついにこの処女塚の上で討たれてしまった。
『太平紀』に描くこの武勇を記念して、弘化3年(1846)の代官竹垣三左衛門藤原直道が東明村塚本善左衛門・豊田太平・牧野荘左衛門に命じて建てさせたものである。

田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌碑
「古の 小竹田壮士の 妻問ひし 菟原処女の 奥つ城ぞこれ 」
この歌は、万葉の歌人、福麻呂が旅の途中で処女塚に立ち寄った時の現況と、それから受けた感動を歌ったものである。
古くから処女塚古墳には、東灘区住吉宮町1丁目の東求女塚古墳と灘区都通3丁目の西求女塚古墳にまつわる悲恋の伝説が言い伝えられている。
この伝説は、二人の男性が一人の女性を慕ったため、女性は身を処しかね、歎きつつ死んでしまった。
それを知った二人の男性も悲しみ後を追った。
女性の墓を中にして、男性の墓を東西に造ったという物語である。
側面には八十一叟正四位下加茂季鷹とある。
その左方に建碑年号と思えるものがあるが明らかではない。
  平成6年3月  神戸市教育委員会

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  1. 2014/09/26(金) 08:40:55|
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