続・竹林の愚人 鎌足と安威郷

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鎌足と安威郷

中臣鎌足と茨木について。

鎌足の概略については吉川真司氏が簡潔に述べられています。
天智朝の政治を支えたブレーンが、中臣(藤原)鎌足である。
鎌足は推古22(614)年、飛鳥北方の藤原第で生まれた。
藤原第はのちに不比等が相続し、藤原宮東隣に位置することになった邸宅のことらしく、藤原氏の名はここに由来する。
中臣氏の祖業である神祇祭祀に携わることを鎌足は良しとせず、ひとたび三島別業に隠棲したが、やがて宮廷クーデターを策謀する集団に加わり、乙巳の変で政権を勝ちとった。
『日本書紀』『藤氏家伝』は鎌足こそが政変の黒幕だったと述べ、中大兄皇子との連繋を特筆大書している。
鎌足が改新政府で内臣となったこと、中大兄から厚く信頼されたことは事実と見てよく、クーデターを成功に導いた功績はやはり大きかったのであろう。
『藤氏家伝』には「軍事・国政の重要事項は鎌足の判断に任せた」とあり、また養老5(721)年、鎌足の故事をふまえて内臣となった藤原房前には、「宮廷・朝廷の要務を取り計らい、詔勅を確実に施行して、天皇政治を補佐し、永く国家を安寧ならしめよ」との勅命が下っている。
中大兄が全権を握った孝徳朝末年から斉明朝になると、内臣の役割はいよいよ重みを増した。
中大兄はつねに鎌足に諮って国家意志を定めたといい、そのような政治は天智朝にも受け継がれた。
文献上知られる事績としては、「礼儀」と近江令の編纂がある。
彼は仏教信者でもあった。
飛鳥寺に資財を施して僧侶の修学を助けたり、近江京に程近い山階陶原家で維摩経を講説させるなど、仏教興隆に力をつくし、国家護持を祈った。
長子の定恵を僧侶とし、入唐させたのもその表われであろう。
山階での講経はのちに興福寺に移されて維摩会と呼ばれ、鎌足の忌日法会として重んじられた。
儒教と仏教は大化改新の思想的基盤でもあったから、双方に通暁した鎌足が、新国家体制のイデオロギー整備に関わったと見るのは自然であろう。
天智8(669)年冬、鎌足は近江京で死の床についた。
天智天皇は見舞いに訪れ、大織冠の位、内大臣の官、藤原の姓を与えた。
ほどなく鎌足は死去し、1年にわたる殯のあと、山階精舎(山階寺。陶原家の持仏堂か)で葬礼が行なわれた。
百済人沙宅紹明が碑文を作り、遺徳を讃えたが、天智朝の文革を伝え、大織冠の墓所を知る手がかりにもなろうその碑文は、残念ながら今に伝わらない。
吉川真司「飛鳥の都〈シリーズ 日本古代史 3〉 (岩波新書)(2011/4/20)

ここで注目されるのは「三島別業に隠棲」とあります。
日本書記第24巻に、「三年春正月乙亥朔、以中臣鎌子連拜神祗伯、再三固辭不就、稱疾退居三嶋。」
(皇極天皇の3年(644)1月に鎌足は神祇伯という高貴の職に任せられたが、病と称して固辞し、三島の地に退隠した)と記されています。

「日本書紀」は、皇極天皇3年の條に突然鎌足について書きだして、そこに過去のことまで鎌足について書きつらねる。
これは、普通のことではない。中大兄皇子と接近した逸話までつらねている。
法輿寺(飛鳥寺)で蹴毯の会があったとき、中大兄皇子の皮靴がぬけたのを鎌足がひろってささげたことが緑となったという、戦前の修身教科書にとりあげられていた逸話である。これは、中国の故事から得た創作である。
とにかく中大兄皇子に接近したかったので、チャンスを待って、逸話のようなことを契機にして親しくなったとしている。
「藤原氏家伝」では、「軽皇太子は器量がともに大事を謀るに足らず、王宗を歴見して、ただ中大兄皇子は雄略英徹にして、ともに乱を撥すべく 云々」とある。
三島にいたからこそ、謀議が秘密ですすめられたということも、かんがえられる。
三島のどこだったか。現在の安威地内か。桑原か。
桑原では、そこで鎌足が策をめぐらし、阿武山の光り石でことの成功の如何を占ったと伝えている。
とにかく安威川をみつめ、淀川を眺め、この二つの川筋にいる勢力とのつながりを掘りおこしながら、可能な道をさぐつたのである。
『安威郷土史』(1998)


安威郷は、奈良時代から平安時代にかけて見える郷名です。
安威郷の領域は、茨木市の太田、耳原、福井、安威、桑原、大門寺、生保、大岩、安元、革作、忍頂寺などの一帯だったと推定されています。
その安威郷には鎌足に関わる寺院古跡があります。
Dainenji
大念寺(だいねんじ)  茨木市安威3-17
現在は浄土宗知恩院派の寺院ですが、寺に伝わる『摂州嶋下郡阿威山大織冠堂縁起並序』(宝暦11年・1761)によれば、鎌足の長男定慧が斎明天皇2年(656)に大念寺を創建し開祖となったとあります。
定慧は遣唐使として、唐の都長安に留学20余年。
天武7年(678)9月、帰朝して大念寺に入ると、安威に葬られていた鎌足遺骸を多武峯に改葬したという。
境内には「黄金竹」が今も繁茂し、不思議と頭だけが枯れて「黄金の冠」をかぶっているように見えるのは、鎌足の首だけ多武峯に改葬したからだとか。

阿為神社
阿為神社(あいじんじゃ)  茨木市安威3-17-17
延喜式神名帳に載る式内社で、『新撰姓氏録』摂津国神別に「中臣藍連 天児屋根命12世孫大江臣之後也」と、中臣藍連が始めてこの地に来て祖先の天児屋根命を氏神として祀ったとされます。
翌4年6月12日に蘇我入鹿が誅され、年号を大化と定め、12月には難波長柄豊崎宮に遷都され、翌年正月1日に大化改新の詔書が下されている。
この一連の歴史を考えると、先の鎌足公の三嶋隠退は、単なる隠居ではなく、ここで蘇我氏誅滅から大化改新までの歴史的大変革の秘策が練られたのである。
その舞台となった所が、当社を中心とする周辺ではなかったろうか。
吉井良隆『式内社調査報告』(1977)


大織冠神社
大織冠神社(だいしょくかんじんじゃ) 茨木市西安威2-1
「大織冠鎌足公古廟」の石碑がある将軍塚古墳。
平安中期の頃から、藤原鎌足公の墓所は、初め「摂津の安威にあったが、後に大和多武峰に改葬された」との説があり、それが江戸時代になってこの塚をあてるようになった。
そのため鳥居を建て、石碑を造り、石室内に祠をつくって崇拝し、毎俊10月16日には、京都の九条家から使者が来て、反物2000匹を持参し、お祭りをされていた。
考古学上からは、山頂を利用して造られた円墳で、南向きの横穴式石室を有するものである。
造られた時期は、古墳時代後期(6世紀後半)の頃であるが、早くから開口されたので副葬品については何もわかっていません。
茨木市教育委員会


地福寺
地福寺(ちふくじ) 茨木市桑原33-15
安威川ダム建設工事のため平成16年、西方高台の現在地に移転する。
今は浄土宗で大念寺の末寺となっていますが、『桑原山地福寺縁起』によれば7世紀中臣鎌足によって創建され、鎌足の長子定慧の師慧隠の開基と伝える。
この寺もまた、「入鹿誅殺」計画を鎌足が練った所とされ、鎌足自筆の「鎌足の御影」が伝わる。
多武峯曼荼羅
大織冠像(室町時代)
鎌足を中央に大きく、手前に長男の僧定慧と次男の不比等は配す。
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  1. 2014/12/13(土) 21:10:19|
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