続・竹林の愚人 安威(あい)

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安威(あい)

「あい」の呼称は古代から変わっていない。
阿為(延喜式神名帳)、安井(玉葉)、藍(皆川文書)、阿威(元亨釈書)、阿井(摂陽群談)の宛字がそれである。
しかし和名抄で書かれていた安威郷という書き方が定着した。
和名抄は読み方は「阿井」つまり「あい」と念押しをしている。
『安威郷土史』(1998)

安威郷

大宝律令(701)が制定され、祭祀をつかさどる神祇官と行政をつかさどる太政官が並置された。
摂津職は難波津と同時に津の国を管轄したが、管内には12の郡があった(平安時代には13郡)。
島下郡は島上郡と共にもとは三島郡と称したらしい(『日本書紀』雄略7年)。
両郡の境界は阿武山の南麓からほぼ南北にひいた線である。
平安初期に著わされた『和名類衆抄』には島下郡には新野・宿久・安威・穂積の4郷があった。
安威郷は太田・耳原・福井・安威・桑原・大門寺・生保・大岩・安元・車作・忍頂寺などの地域、
『茨木市史』(1969)

ここで問題となるのは、継体天皇陵だ。
『日本書紀』に「葬于藍野陵」(藍野陵に葬りぬ)と記され、『古事記』には、「御陵者三嶋之藍陵也」(御陵は三嶋の藍陵だ)と記されている。
そこで、江戸時代、松下見林が『前王廟陵記』(1696)で太田茶臼山古墳を継体天皇陵とし、現在も宮内庁によりそのまま引き継がれている。

Ota02_20141219233800925.jpg
太田茶臼山古墳(おおだちゃうすやまこふん)  茨木市太田3
三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ) 

茨木中学校の天坊幸彦氏が条里の研究から、早くも昭和元年(1938)に継体天皇陵は今城塚古墳であると主張した。
『延喜式』に「磐余玉穂宮御字継体天皇在摂津国嶋上郡、兆域東西三町南北三町守戸五烟」と、継体陵は島上郡にあるとはっきり書かれている。
本居宣長は安威は上下両郡の境なので、藍野陵は昔は上郡だったが今は下郡になったと言っているが、島下郡との境界線は北方塚原村の山麓に沿って南下して、三島村の東辺を限とするもので、この境堺線は古来より変動していない。
このことは条里の遺制からも証明できるとする。

今城古跡

今城塚古墳はその名のとおり、16世紀に三好長慶が出城を築き、その後の伏見地震(1596)により墳丘の盛土が滑落したため、高槻藩が藍野陵を探索した頃にはただの城跡と見なされた。

今城塚

今城塚古墳(いましろつかこふん)  高槻市郡家新町   
現在では、太田茶臼山古墳の築造時期が5世紀前半または中頃、今城塚古墳は5世紀前半とされ、今城塚古墳が真の継体陵と目されている。

そうすると、安威の地は6世紀においては芥川西岸にまで及ぶことになるのだろうか?
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  1. 2014/12/19(金) 23:46:32|
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