続・竹林の愚人 権現寺

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権現寺

権現寺(ごんげんじ) 京都市下京区朱雀裏畑町10
浄土宗 清光山 成就院
寺伝などによれば、長保2年(1000)に藤原廠光(藤原道長の従兄弟で、1017年に左大臣)より宅地(五条通富小路辺り)の寄進を受けて寺となしたことから、須達長者の祇園精舎を造るが故に、祇陀林寺と号した。
その後、度重なる災害(水害や、治承3年、承久元年の火災など)に遭って諸堂が焼失し、地蔵を護持するため、三災不動の地である朱雀へ移って地蔵堂を建立した。
一方、建保2年(1214)に高倉天皇の妻で、後鳥羽天皇の母である七粂院(藤原殖子)が建立した歓喜壽院は、承久の乱(1221)の結果、く曾孫>仲添天皇が廃位、<子>後鳥羽上皇・<孫>土御門上皇・<孫>順徳上皇らが配流されてしまい七条院の勢威が衰えるとともに、後鳥羽上皇の息・仁和寺道助親王に譲られ、仁和寺御室の管領するところとなった。
その後、荘園の喪失や度重なる火災などにより荒廃し、室町時代には権現堂のみとなり、安土桃山時代に祇陀林寺に譲られた。
祇陀林寺も、戦国時代には動乱などにより衰退したが、「火印地蔵菩薩譚(津子王物語)jを弘めるとともに、地蔵講を行って法灯を守り続け、慶長元年(1596)に御土井の外側(規在の朱雀内畑町)で、浄土宗寺院として再興することができ、権現堂も移設した。
江戸前期には祈祷所【勝軍地蔵(防災、厄除け、必勝祈廟など)、火印地蔵(開運、出世、病気平癒など)】として、又、愛宕信仰(勝軍地蔵が本地彿)と相侯って都人で賑わっていた。
しかし、正徳元年(1711)に法然上人の500年遠忌を迎えるにあたり、祇陀林寺から権現寺へと改称し、祈願所から供養寺へと変わることとなる。
明治44年(1911)には京都駅操作場の拡張により現在地(朱雀裏畑町)へ移転し、現在に至る。

本堂  本尊:阿弥陀如来
地蔵堂
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  1. 2015/03/08(日) 09:38:04|
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