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郡名や国名は、その国郡の中心的な郷名または集落名から採られたと考えられるが、丹波の国内には丹波という郷名も集落名もない。
実は『和名抄』には「丹波郡」の中に「丹波」という郷が記されていて、峰山町に丹波という集落がある。
丹波の名が丹後に存在するのは、もともと丹波は丹後を含めていたが、和銅6年(713)に北部の5郡が丹後国となったことによる。
当時の丹波郷付近から竹野川流域の中郡平地は、縄文・弥生の遺跡が多く、肥沃な沖積地が広がり、古墳も二百数十基が残り、生産力の大きな所であったと考えられる。
北の海岸部の浦島伝説は、『日本書紀』や『万葉集』にも記され、大陸との交流を想像させる。
古代には近くの古竹野湖・古浅茂川湖等の潟湖および久美浜湾が港となり、国内各地および大陸との交易が行われたという。
このような豊かな土地を支配していた首長は極めて強大なはずで、それが記紀に由碁理および丹波道主として表わされている人物であろう。
この首長たちの強大さは、近くにある網野銚子山古墳(長さ198m)、竹野神明山古墳(長さ約190m)など、日本海側最大の前期古墳が存在することで裏付けされる。
『古事記』によると、第9代開化天皇は丹波の大県主由碁理の娘、竹野媛を妃としヒコユムスビ命を生んだ。
第11代垂仁天皇の后妃について、『日本書紀』は、皇后狭穂姫が兄狭穂彦の謀反に加担して敗れ、後宮は丹波道主王の貞潔な娘5人を召しなさいと遺言し、天皇はそれに従って召入れた。
この皇妃の入内は丹波の首長が大和政権に服属したことを象徴している。
丹波が大和に服属したことは屯倉(三宅)の存在にもうかがえ、丹後町には神明山古墳に近く、竹野川を隔てて三宅という集落がある。
おそらくこれは服属の証として献進した屯倉の通称であろう。
伊勢の豊受大神宮(外宮)は丹波から移られたと伝承している。
しかし丹後中郡および竹野郡内には、豊受神を祀る式内社が数社があり、どの神社であったかはっきりしない。
この豊受大神宮の遷座は何を物語るものであろうか。
丹波の首長を服属させた大和政権は、さらにその祭祀権を奪って王権の主神である皇太神宮につけ、丹波の独立権を根底から無くしたのである。
多紀郡篠山町福井の櫛岩窓神社は延喜式に名神大社とされている。
さらに山城と丹波の境の山上に祀られている「丹波愛当護神」には貞観6年(864)従五位下が贈られ、元慶3年(879)には従四位上に昇叙されている。
櫛岩窓神も愛宕の神も共に、入口とか門を守って鬼や悪霊などの進入を防ぐ神である。
このように京都への道を厳重にしたのは、垂仁天皇以来、丹波には何となく気味の悪い恐ろしさを感じていたのではないだろうか。
丹波が好感を持たれなかったことは万葉集を見てもわかる。
万葉集にはほとんど全国の地が詠まれているのに、都に近いにもかかわらず丹波の歌は一つもない。
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- 2013/10/19(土) 07:00:40|
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「戦前日本のジャズ文化」へむかって
横浜・山下公園の東端から本牧方面にむかい、山下橋を渡った河のたもとに以前「BUND HOTEL」というホテルがあった。
このホテルをイメージして作られた歌謡曲が「別れりブルース」(1937)・「ブルーライト・ヨコハマ」(1967)・「よこはま・たそがれ」(1971)で、いずれも曲想と歌詞の情感がぴたりと合致している名曲である。
この3曲の中で唯一戦前に作られたのが「別れのブルース」で、服部良一の自伝によると、当初そのタイトルは「本牧ブルース」となる予定であったと言う。
服部とその相棒・詩人の藤浦胱は、歌謡曲として広く大衆に愛される「日本のブルース」を作ろうと意気投合した。
その頃の本牧は、港を見下す小高い丘にチャブ屋やバーが密集した一種の私娼窟で、異国情緒にひかれた粋客が訪れる、遊所の穴場として有名になっていた。
服部はそうした本牧のバーで偶然、淡谷のり子が唄ったダミアの「暗い日曜日」を蓄音機で聴き、本牧を舞台にした「ブルース」を彼女に唄わぜようと決める。
服部と藤浦は、蓄音器からはジャズが鳴り、色町特有の喧噪はあったが、植民地風な頽廃がたちこめ、妙に悲しい一区劃である本牧風俗街の印象から、当時の港街の典型的な情緒を抽出・再構成し、多くの人の心を掴むことに成功した。
服部良一が生まれ育った大阪から東京に仕事場を移したのが昭和8年(1933)。
ラジオ、レコード、トーキーの出現で激変した音楽産業の要求に、戦前のミュージシャンの多くはついて行けず、失職、転職を余儀なくされた。
服部良一は「うなぎ屋の客引き」演奏からスタートして、大阪フィルで勉強しながら市内で一番儲かるダンス・ホールで稼ぎ、大衆音楽の作曲家になった。
価値のあるもの=人々が求めているものを貪欲に求める彼のセンスは一貫しており、厳格なエマニエル・メッテル氏に師事しながら、ダンス・ミュージック・クリエイターの第一人者である井田一郎などとも交流があった。
彼は音楽によって生活してゆこうと考え、その当時最も広く必要とされるだろう音楽のクリエイターになろうと試みた。
その結果、彼が選んだ職業がジャズ/ポピュラー・ソングの作曲家であった。
服部良はアメリカから来たジャズ/ポピュラー・ミュージックに、都市に暮らす庶民は、こうした音楽を自身の生活のために絶対に必要とする、ということを強く感じていたに違いない。
でなければ大阪フィルに残って、オーボエでモーツァルトの交響曲を吹いて一生を終わっていたはずだ。
「別れりブルース」は外地から火がついた。
外地とは植民地のことだ。
1937年は日本が中国への侵略を全面的に開始した年でもある。
「BUND HOTEL」の「BUND」とは「海岸線」のことであり、メリケン波止場から出て行った船は横浜の対岸である上海の「BUND」へと向かうのだろう。
この時期の日本は、このてようにして広がってゆく植民地と、そこに新しく生まれる「民」とを一つにまとめるためのイデオロギーを強く必要としていた。
服部良一は、アメリカのジャズ/ダンス・ミュージックのあり方から、その最良であるかもしれない形を読み取っていたのではないかと思う。
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- 2013/10/18(金) 07:00:31|
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13世紀初めにモンゴル高原でチンギス=ハンが建てたモンゴル帝国は、東に女真族の金朝を攻め、西にイスラーム王朝のホラズム・シャー王国を破り、帝国の範囲を高原の外に広げた。
その過程で内陸の交易を担っていたウイグル人が帝国に参入し、経済や情報などの面で帝国を支えるようになった。
オアシスを結んで交易していた商人たちは、モンゴル帝国の領域内で安全に交易を行うことが可能となる。
チンギス=ハンの後継者は帝国をいっそう拡大し、第5代皇帝フビライは中国に元朝を開き、中国全土を支配下に収めた。
元朝が南宋を攻略する過程で、華南を拠点に海の交易を営んでいたムスリム商人と接点を持つようになる。
海を航行する商人たちは、モンゴル帝国の統治下で盛んに交易を展開した。
フビライは海への支配を強固にしようと、海外遠征を行うが、日本遠征に失敗し、ジャワ遠征も失敗する。
しかし、中国側と日本・ジャワ側の双方に海の世界に関する膨大な情報を残したに違いない。
元朝に代わって中国を統一した明朝は、朝貢してきた各地の政権の長に、王侯君長などの爵位を与えて身分の序列を作った。
明朝の皇帝から国王として認められた君主は定期的に中国に来航し、貢納すると、皇帝からは多大な下賜品が与えられた。
この朝貢メカニズムのもと、国外との取引が制約されていたため、交易は密貿易商人が担うようになる。
明朝が弾圧すると、海の商人は武装して沿海地域で略奪を行う事態となった。
これが、後期倭冠と呼ばれる状況である。
倭寇の頭目の1人であった王直などの指導者は、日本と中国、さらに東南アジアを結ぶ交易を展開した。
さらに王直などの華人商人は、この交易活動のなかに、ポルトガル人を引き入れた。
王直らは明朝に対して、自らを海の秩序を護持するポストにつけるとともに、海禁の緩和を求めた。
海禁緩和は、王直の死後ほどなくして実現され、朝貢を伴わない交易(互市)が認められるようになった。
王直の死後、江南ネットワークに属する海洋商人は後退すると、マカオに拠点を置くポルトガル冒険商人が担うようになる。
ポルトガル冒険商人は、イエズス会宣教師と密接な関係を持った。
商人が宣教師に寄付し、宣教師はアジア各地に信者のネットワークを創る。
信者ネットワークは、アジアにおけるポルトガル商人の庇護者、パトロンともなり、彼らの交易活動を支える。
こうして16世紀後半には、蜃気楼王国はカソリック信仰圏という色彩を帯びてくる。
この時期に、商人・武将・キリシタンという要素を兼ね備えた人物として、小西立佐と行長の父子が、日本から現れる。
明朝は日本に警戒心を抱いていたために、互市の対象から日本は除外されていた。
そのため、日本と中国とのあいだの交易は、東南アジアや台湾などを経由して行われた。
この交易を17世紀に掌握した勢力が、福建出身の鄭芝龍、そしてその息子の鄭成功、および西欧の新興勢力であったオランダ東インド会社であった。
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- 2013/10/15(火) 07:00:09|
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JR両国駅のプラットホームから北をみれば、国技館の緑の大屋根が眼のまえです。
右隣りに、4本脚の白い建物。
巨大な机に白い箱を山ほど積みあげたような。
どうしてこんなかっこうを、江戸東京博物館はしているのだろう。
江戸切絵図の「本所絵図」には、隅田川べりにならぶ大名屋敷の裏側が、大きな三角地の「御竹蔵」となっています。
維新後は、陸軍省の倉庫となり、やがて軍装工場の被服廠がつくられ、やがて赤羽へ移ると、跡地の24,000余坪の三角地は大正11年3月に東京市と逓信省に払い下げられ、一面の更地になっていた。
そこへがらりと大地震。
被服廠跡は、全焼失区域のあいにくまんなかあたりになる。
38,000余人が折り重なって死んだなかで、400人ほど生きのこった。
大正12年の惨劇の三角地の、北側3分の1ほどを
横綱町公園にして、ここに震災記念堂が建立されたのが昭和5年(1930)9月。
神社のような仏閣のような教会のような、瓦屋根のお寺風の講堂で、公園が境内にあたります。
本堂と背中合わせに、三重の塔をいただく納骨堂をつくり、約58,000体の遺骨を納めた。
その震災記念堂が、戦後の昭和26年(1951)9月に、東京都慰霊堂と改称された。
震災58,000体、戦災105,000体、22年をへて東京の巷に散った無量の骨たちをまとめて弔う。
震災時の東京市長永田秀次郎の「
焼けて直ぐ芽ぐむちからや椋欄の露」の顕彰碑、その左隣りの植込みのなかに、横長の石碑が立つ。
横書きで「追悼」と、その下に「
関東大震災朝鮮人犠牲者」とある。
震災は、流言蛮語を生んだ。
朝鮮人が諸方に火を放ち、井戸に毒を投げこんでるぞ、火薬庫が襲撃されるぞ、大挙して攻めよせてきたぞ。
流言は災害激甚の横浜に発して、たちまち東京へとどいた。
警視庁はただちに要人警護に走り、町々村々に自警団が生まれて、朝鮮人狩りがはじまった。
軍は近県の軍隊にも出動を命じ、戒厳令が9月2日午後6時に東京市と周辺5郡に施行され、翌3日に東京府と神奈川県に、4日には千葉県と埼玉県へと拡大した。
軍隊や自警団に追われて、警察へ逃げこむ朝鮮人も、警察にぶちこまれていて助かった社会主義者もいた。
極度の混乱中の事件は、騎兵連隊から亀戸署から自警団から、なしくずしに戒厳令下の正当行為とされた。
この間に虐殺された朝鮮人たちのなかには、中国人も日本人もまざったようで、疑われたら運の尽きらしかった。
戒厳令は11月なかばに解除になるが、この戒厳令的状況が、その後は海外へ輸出されてゆく。
満州へ、中国へ。柳条湖の爆破。盧溝橋の一発。
内地では、自警団の活動が、愛郷的行動として肯定された。
そしてそれが警防団へ、たびたびの防空演習から、防諜へ、非国民監視の日常活動へと、つながったのでありますなぁ。
鈴木俊一都知事の置き土産に、平成5年(1993)3月、江戸東京博物館がそびえ立った。
4本脚の大机は、被服廠跡へむけてピタリと据えてある。
その机上に載せた梯形は、白亜の壁面が横線と縦線で四角く何百と区切られている。
あの三重塔の納骨堂に収まる白磁の骨壷たちを積みあげたような。
してみれば、この全体が、すなわち香華台なんだ!
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- 2013/10/06(日) 07:00:50|
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VIKINGクラブの子弟 山田稔『富士さんとわたし―手紙を読む』書評
若い身空で痔に悩む男がいて、みかねた17歳年上の先輩が、わが身に卓効のあった治療法を図解で敢えてあげる。
しかるに若者は、助言そこのけに悪友どもと二日酔いの不摂生をかさね、ついに3年後に手術の憂き目をみる。
しかもその体験をとりこんで、出世作『スカトロジア―糞尿譚』を仕上げたのだった。
1枚のハガキからも、けっこう展開があるもので、そこで本書は長尺の絵巻物をくりひろげるあんばいとなる。
1954(昭和29)年、若者が22歳のときの出会いから、1987年、先輩が74歳で毅するまで、33年間の往復書簡と、その注釈が、A5判530頁の大冊となった。
先輩が富士正晴。往年の若者が山田稔。
悪友どもは、同人誌「VIKING」族と「日本小説を読む会」の面々など。
戦後は処士横議の時代で、つまり訪問と手紙の時代でした。
その気風は昭和30年代まではつづき、その後も惰性でだいぶつづいた。
激論ないしムダ話のはてに泊まり込むのも再々で、なにやら濃密な気配なのに、ハガキや手紙は素面で書くから淡々としている。
この間合いが、味わいですなあ。
大阪府茨木市の富士正晴記念館には、正晴あての厖大な来信類が分類整頓されている。
山田家にある正晴書簡169通だから、組みあわせれば往復書簡が復元できる。
竹林の隠者的定評の人がいかに活き活きとチャーミングであったことか。
いかに無類の先達であったか。
往復書簡の探検行は、2005年より「VIKING」誌に連載して、丸3年におよんだ。
「VIKING」は敗戦当時からつづく同人誌の老舗で、キャプテン富士正晴は、ユニークな才能たちを離合集散させてきた。
キャプテンは、ここぞという激励を惜しまず、深夜の迷惑電話を掛けまくる人で、同時にそっぽをむいたらにべもない人でもあった。
そのキャプテンの、行住坐臥の記録たりえている。
富士正晴その人が『贋・久坂葉子伝』このかた最晩年の『恋文』まで、破格な新形式の人間記録を生みつづけた先達であって。
その先達を描きだす新形式が、コロンブスの卵ではないが、まだあったものだなあ。
そもそも『スカトロジアー糞尿講』が、この談論風発の場でこそ生まれた。
VIKINGクラブは、こういうやっぱり運動体だったのだ。
富士正晴亡きいまもどっこい生きているのだ。
その証明として、著者は「富士さんとわたし」を、3年間のんべんだらりと連載した。
先輩の段年を越えた人生の第4コーナーにおいて綴ったこの530頁は、先輩へ深甚の謝意をこめた自発的継承ないし挑戦なのでしょう。脱帽。
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- 2013/10/05(土) 07:00:02|
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東大寺大仏造立に関与し、鎮守手向山八幡宮として南都に進出した八幡神は、道鏡即位問題を惹起し、天下の耳目を驚かした。
平安初期、藤原良房は妹の順子所生の道康親王が文徳天皇になると、娘明子を入内させ、その子惟仁親王の立太子を強引に進めた。
八幡神の神威で世論を圧伏させるため、良房は惟仁立太子の祈請に僧行教を宇佐八幡宮へ参向させた。
『南都大安寺塔中院縁起』によると、行教が宇佐宮に参り、大般若経を法施すると、「汝と共に上洛して百王之聖流を護らん」との託宣が下り、大同2年(807)8月17日に朝廷に報告すると、勅命をもって大安寺石清水坊に宝殿を造った。
そこで日夜法施にはげんでいると、今度は都に近く移坐したいとの告げがあり、男山に鎮座することになったと述べている。
当時真言宗では空海のあと、弟子は実慧の広沢流と真雅の小野流に分かれて競合し、行教は小野流に属した。
真雅が東大寺と宇佐八幡宮の深い因縁から、皇位継承に関する八幡神の援助を良房に勧告したのも自然であったろう。
かくして良房の指示を直接仰ぐことになった行教は、弥勤寺の社僧を通じて宇佐八幡宮神職団にも働きかけ、奈良朝大仏殿へ鎮守としての八幡神動座の例にならい、今回は僧侶主導の形式により八幡神神霊の京都への勧請を計画し、良房はじめ要路の諒解をとりつけた。
石清水八幡宮の『宮寺縁事抄』によると、貞観元年7月15日、行教が宇佐宮から都へ帰る途中に託宣が下り、金色の鳩が船の柱に止まって光を放ち、8月23日、山城山崎離宮の辺で1泊すると、25日夜御神体を「石清水男山の峰」が月星のごとく光りかがやいた。
よって男山山頂に参拝して、示現の場所に草庵を結び、この奇瑞を公家に上奏した。
朝廷はそれに応じて勅使を立て、6棟の宝殿を建立して八幡三所へ御神体を安置した。
宇佐八幡宮の『八幡宇佐宮御託宣集』には直接行数と八幡神との応対については全く触れておらず、八幡神の男山遷座は行教の一人芝居だったと見られる。
9月19日には、天皇が男山より紫雲立ち騰り王城を覆う夢想を感じ、皇后や公家も同様の夢をみた。
よって重ねて行教に宇佐宮で大般若経読経供養すべき勅命が出、行数は貞観3年に参向し、正月3日から37日間、僧百口を率いて大般若経・金剛般若経・理趣般若経・光明真言を読み巻数僧名簿を言上、大宮司大神田仲麻呂に五位を授け、度者33人国ごとに諸大明神社各僧1人を遺し、天皇のため祈願せしめ、石清永の料として宇佐八幡神に15人の度者を祈願僧とした。
同時に男山東面の堂を南面の堂に改め、石清水護国寺の薬師堂とした。
一切経書写に行教の弟子安宗を写経所別当として、護国寺別当を兼ねさせた。
貞観7年8月13日には宇佐宮同様神主が置かれ、従八位上紀御豊が補せられた。
このとき真雅が良房とはかって創立した貞観寺には座主職が置かれ、石清水護国寺の宮寺体制が実質的に発足した。
寛平8年(896)行教の弟益信が東寺長者のまま石清水八幡宮の初代検校を兼ね、中世は検校が別当の上に立って一山を管掌するようになった。
また安宗は元慶7年(883)に別当坊として男山麓に極楽寺を創建し、以後その門流の人が寺務を管掌した。
保元3年(1158)の頃には37所に上る荘園を所有し、寺主が八幡宮護国寺検校・別当の兼職であったため、事実上護国寺の宮寺領に包括された。
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- 2013/10/04(金) 07:00:29|
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西暦3~4世紀頃、長江のほとりで1尾の赤いフナが見つかりました。
最近のDNA分析でこの赤いフナのジイが金魚の先祖であることがわかりました。
その後、中国の北宋時代(900年頃)に、宮廷や寺院などで赤いフナが飼育され、代々宮廷に受け継がれて、さらなる進化を遂げます。
熱心に飼育をする皇帝も現れ、南宋時代には飼育や販売を生業とする者もいたようです。
人々はこれを金運をもたらす魚〝チンユイ″と名付けました。
金魚の誕生です。
明代(16世紀中頃)になると、金魚の飼育は盛んになり、多くの新品種が出現します。
日本には、寛延元年(1748)に刊行された日本初の金魚の飼育手引書『金魚養玩草』(安達喜之著)によれば、1502年に現在の堺市に入って来たとされています。
当時の日本は室町時代末期で中国との交通が盛んだった時代ですが、戦乱の世でもあり、一般庶民の手の届くようなものではなかったようです。
室町時代末期、文禄4年(1595)に発行された『天草版羅葡日対訳辞書』では〝こがねうお″とあり、その8年後に出版された『長崎版羅葡日対訳辞書』では〝きんぎょ〟と〝こがねうお″とあり、すでに〝きんぎょ″と呼んでいたことがわかります。
江戸の初期には、お屋敷で金魚は観賞用はもちろんのこと、当時のお殿様の毒見用に納めていたそうです。
江戸中期以降になると、藩士の副業として金魚養殖を藩を挙げて進めるところも出てきて、金魚養殖はどんどん盛んになっていきました。
寛延元年(1748)に金魚の飼育の手引書『金魚養玩草』が発行され、この時代に金魚売りや金魚すくいという仕事や遊びが成立したそうです。
そして、19世紀初期の化政文化の時代に一番の盛り上がりを見せます。
この時代は徳川文化の爛熟時代で、花木の栽培や小鳥などの小動物を飼うことが盛んでした。
幕末の頃になると、金魚の養殖は藩士の副業として、明治維新後は、職禄を失った藩士や農家の副業として盛んに行われるようになりました。
中国から渡ってきた金魚は日本だけでなく、欧米にも渡りました。
アメリカへは幕末の頃日本から持ち込まれました。
アメリカでもはっきりとした色の赤や、赤と白のコントラストが珍しく、投資の対象ともなったようです。
また日本から入った琉金の先祖返りを固定して「コメット」という品種をつくり、日本に逆輸出した品種もあります。
一方ヨーロッパには18世紀頃に中国から渡り、ペットとして飼育されました。
とくにイギリスは日本と同様に庭園文化があり、金魚の注目度が高かったようです。
そこで生まれたのが「ブリストル朱文金」で、横から見ると尾びれがハート型になっています。
イギリスは水槽の横見で観賞魚を楽しむ文化なので、上からではなく、横から見て美しいつくりをしていることです。
日本と中国、そして欧米では金魚の捉え方が違うように思います。
犬や猫と同じようにべットとしてかわいがる欧米、次々に新品種や珍しい品種をつくり出そうとする中国。
しかし日本では人間がつくり得る唯一の生きた芸術なのではないか。
鱗の色、柄、バランス、尾びれの形などひとつひとつに日本人の調和のとれた美しさを追求する美意識が宿っているのが金魚だと私は思います。
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- 2013/10/03(木) 07:00:48|
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『三国史記』(1145年成立)によれば、新羅では、500年に智証王が即位し、異斯夫を軍主に任じて領土を広げ、514年には智証王が死去して、その子の法興王が即位したとされる。
新羅はこの法興王(在位514~540)の時代に、国内体制を整え領土の拡張を進めた。
522年には、伽耶国の王が新羅に婚姻関係を求め、法興王は伊飡(新羅の官位17階の第2位)の比助夫の妹を送ってそれに応じたという。
この伽耶国王は、大伽耶連盟の盟主であった加羅(大伽耶)国の王とみられる。
その後新羅は、もっぱら南部伽耶地域への領土拡張を進めていくことになる。
一方、百済は、501年に武寧王が即位し、北は高句麗と戦いその南下を防ぎ、東は北部伽耶地域、南は南部伽耶地域への侵攻を積極的に進めていた。
その際百済は、倭と結ぶ方針をとった。
『日本書紀』に記す百済への「任那四県の割譲」や、己汶・帯沙の百済への「下賜」は、百済が伽耶地域に領土を拡張していったことを、『日本書紀』編者の立場から述べたものである。
『日本書紀』では、当時、「任那」(伽耶諸国)は日本(倭)の支配下にあったとされ、新羅や百済も日本に従属していた国と位置づけられている。
倭が伽耶地域(とくに南部伽耶地域)と密接な関係を有していたことは事実だが、事実とみることはできない。
継体紀6年(512)12月条に「任那四県の割譲」は、百済が使者を遣わして、「任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県の割譲」を求めてきたとの記事がある。
百済の要求を認めた方がよいとする「哆唎国守」穂積臣押山の意見に、大伴金村が同意し、割譲が決定したとされる。
近年、全羅南道の地域から前方後円墳があいついで発見されており、この地域に倭人が派遣され、この地で亡くなった人物もいたことを示している。
続いて、翌年の継体妃7年6月条には、百済が使いを遣わして、五経博士(儒教の博士)の段楊爾を貢上し、伴跛国に奪われた己汶の地の返還を求めてきたとあり、同年11月条には、己汶・帯沙を百済に下賜する勅が伝えられたと記されている。
百済が五経博士を倭に送ってきたのは、百済の伽耶地域への領土拡張を、倭が支持し承認したことに対する見返りと考えられる。
百済では、523年に武寧王が死去し、その子の聖明王(聖王)が即位したが、聖明王(在位523~554)も、倭と結ぶ方針を継承し、領土の拡張を目指していった。
その頃、倭国内においては、磐井の乱がおきた。
継体紀によれば、磐井の乱は新羅に破られた南加羅と〔口彔〕己呑を復興するために「任那」に派遣された近江毛野の軍を、磐井がさえぎつたことによって始まったとされる。
新羅が磐井に賄賂を送って、近江毛野の軍を妨害するように勧めたということも、当時の朝鮮半島情勢からすれば、事実を反映した記述であろう。
磐井は筑紫・火国・豊国に勢力を伸ばしていたという。
磐井の墓と推定される岩戸山古墳の規模や、そこに数多く立つ石人・石馬などの石造物の分布からすれば、これも事実を反映したものだろう。
岩戸山古墳は、6世紀前半築造の全長約140m前方後円墳で、八女古墳群中の最大規模の古墳である。
『日本書紀』によれば、磐井の乱を鎮圧したのは物部麁鹿火で、筑紫の御井郡の戦いで、麁鹿火自らが磐井を斬ったとされ、『古事記』では、物部麁鹿火と大伴金村の2人が乱の鎮圧に派遣されたとある。
継体紀によれば、磐井の乱後、近江毛野臣の軍は朝鮮半島に渡ったが、新羅に敗れ、毛野による外交交渉も失敗に終わったとされる。
結局、南加羅(金官国)は、532年、新羅に降伏することになった。
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- 2013/10/02(水) 07:00:46|
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縄文海進がおこる前の陸地は、現在よりも140mも下がった地点にあり、東京湾も伊勢湾も干し上がった陸地であった。
それが温暖化によって海水面がどんどん上昇し、縄文前期(約7000~5000年前)には現在の海のレベルより約3mも上がり、関東平野はほぼ水没した。
この縄文海進によって、朝鮮半島でつながっていた日本列島が大陸から離れ、四国や九州も本州から分かれたのである。
その後、水位は徐々に下がって現在の陸地の範囲に落ち着き、現在とほぼ同じ気候になっていたことから、日本列島には今と同じような森林地帯が広がってきたと考えられる。
縄文といえば縄文土器といわれるように、土器のつくられた時代が縄文時代の始まりになる。
最古の尖底土器は、約12,000年前(縄文草創期)のもので、一見不安定な形をしている。
これは、底部を石で固定したり、倒れないようにして火にかけて使うと考えられる。
ドングリ類のアク抜きのために工夫された土器で、熱の対流効果を高め、煮沸の目的で使うきわめて合理的な形である。
尖底土器は後に、平底になり、底の大きい土器と小さい土器とが並存していき、中期から晩期には文様や形が緻密になる。
基本的には、縄文土器は食べ物を者炊きしたり、貯蔵するためのものである。
縄文人は遺跡から発掘された弓矢などの石器、貝塚の調査などから、イノシシやシカなどの哺乳類やサケやマスなどの魚類を食べていた
縄文人の生業は、植物採集・狩猟・漁労の三本柱で、食物の種類は地域によって異なるものの、小動物よりも植物を主として食べていたと考えられる。
各地の遺跡から、クルミのほか、ドングリ類やトチの実、植物を採取するための打製石斧や植物を加工するための石皿・磨石・敲石などの生産用具が多数発見されている。
中には炭化したパン状やクッキー状の食物も出土しており、木の実、動物の肉などを混ぜてつくっていた。
海岸部ではマダイ・カツオ・マグロ、海のない内陸部ではフナ・コイなどの淡水魚を捕っていた。
土器の開発によってドングリ類の実が食べられるようになってから、やがて縄文前期になると製粉技術が登場し、アク抜き技術がさらに発達する。
土器の形が円錐形から体積が4倍も大きい円筒形に変わるのも、クズやワラビなどの地下茎や球根類の植物デンプンを製粉して沈殿させるのが目的であった。
さらにこの頃になると、打製石斧を先端につけた掘り道具も発達して、デンプンの確保が安定したことから、クッキーやパン状の食べ物もつくられるなど、野生植物の利用が高度に進んだと考えられる。
そして、縄文中期には、野生植物のなかでももっとも難しいとされているトチの実のアク抜き技術が完成し、この段階であらゆる植物が縄文人の食卓にのぼっていたと推察できる。
ドングリ類やトチの実のアク抜きのためには、多量に水を使い、何度もボイリングする必要があるため調理場が必要で、移動生活では無理がある。
こうして縄文の人々は、森の近くの土地に竪穴住居を建て、堅果類などの調理や貯蔵のために複数の家族単位で集まって暮らすようになり、定住生活を始めたと考えられる。
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- 2013/09/30(月) 07:00:09|
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 | 自費出版入門
(1986/10) 深田敦夫 |
自費出版した人は、どんなふうに素敵な本をつくったのでしょうか。
自費出版をするときに、編集作業も受付店で頼むと、もう一種類本を出せるぐらいに費用がかさみます。
いくら自費出版が身近になったとはいえ、原稿の量や発行部数、装丁の種類によってはかなりの費用が必要になってきます。
自費出版をする場合に、どうすれば少しでも安くできるのでしょうか。
印刷の現場では文字の外観を見ながら一字一字植字していくので、作業のしにくい原稿は、活字に移す前に清書が必要で、この清書代金が馬鹿になりません。
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装丁によっても費用はちがってきます。
受付店の見積もりに上製本と書いてあれば、製本費用のかかるハードカバーです。
豪華なクロス貼りに金箔押しの厚みのある表紙は、書籍と呼ぶにふさわしい風格を持っていますが、本のレベルには関係ありません。
ペーパーバックスでも、表紙の折り返しをつけたり、カバーを厚い紙にすれば、ずいぶん幅のある本になってきます。
また印刷部数に関しても、最初100冊つくって、後から50冊、100冊と増刷すると、まとめて200冊つくるより余分な費用がかかります。
原稿ができあがり、いざ自費出版という段になると、たくさんの人に読んでもらいたいと思うようになります。
ここで自費出版は大きく2つに分かれてきます。
1つはできあがった本を友人知人に贈るというもので、もう1つは書店で売りたいというものです。
自費出版した本にニュース性があれば、新聞社の社会部へ本を送ってみましょう。
記事ネタになりそうな本であれば、紙面紹介の可能性があります。
日本国内で出版された本は国立国会図書館へ献本することが義務づけられていますから、献本すれば国会図書館に保管され、著作権の承認と登録番号を得ることができます。
そのうえ、国会図書館のまとめた出版物紹介の週報で、全国の図書館に紹介してもらえますから、資料性のある本などは特におすすめできます。
読者層がある程度つかめていて、連絡のとれる場合にはダイレクトメールを送ることをおすすめします。
自費出版した本が専門的な分野であれば、その分野の専門誌の読者からのハガキを紹介するコーナー宛に送ります。
本の内容と値段、郵送代金を記し、希望者に現金書留で送ってもらうやりかたです。
作品集やミニコミ誌なら、若者文化の発生源である喫茶店やライブハウス、画廊、ブティック、輸入レコード店などで委託販売するというやり方もあります。
売れる本にするには、いかにも読みたくなるような外観でなければいけませんし、内容も「他人に読んでもらうのだ」と思ってつくらなければなりません。
たいへんな作業ですが、気を抜かず、じつくり腰を落ちつけてつくりましょう。
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- 2013/09/29(日) 07:00:35|
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